東北・関東大震災記録

3月11日〜12日にかけての僕の足跡です。僕のmixi日記をご存じな方はそっちも参照してください。

発生

3月11日、14時46分。僕は部室でドラを弾いていた。部屋には僕のほかに、先輩が二人。
ハンガリー行進曲の速弾きを練習していたところ、はっきりと感じられる縦揺れ。すわ、地震かと思い、真後ろにいたちよさんに確認を取る。10秒ほどして横揺れ。部室では、今まで体感した事のない揺れ。部室にいては楽器の下敷きになるかもしれないと思い、揺れる中いろはさんも含め3人で部室から出た。
廊下には、既に多くの人が出ていた。中には悲鳴を上げ、楽器を持ったまま逃げようとする人も。
しばらくして揺れがおさまる。それぞれの携帯で、ワンセグツイッターを使い情報収集。画面に飛び込んできたのは東北の地図と「7」。驚く。ほどなくして放送で避難命令。戸山公園へ行けとの事。先程以上の揺れはこないと判断し、荷物を持って出る事を提案。3人とも同意見。部室の状況を確認し(譜面をしまった棚が開いた程度)、楽器をしまい、荷物を持ち、鍵を閉めてから部室を出た。

戸山公園

戸山公園に着くと、人だかり。学館にこれほどの人がいたのかと驚く。トイレ前に落ち着き、一安心と思った矢先、強い揺れ。外なのに揺れがはっきりと分かるのが、怖い。この頃、母からのメールが来たが、以降しばらく音信不通に。揺れと前後して、ゆーこさん、kkさん合流。しばし歓談。雨が降ってきた。4時すぎ、(°ё°)さん合流。メーヤウの壁が崩れたとの報。さらに学校側から連絡。「帰れ」との事。この時すでに、横浜まで歩いて帰る覚悟を固め、ルートを考えていた。しかし雨具を持ち合わせていなかったので、一女と共にダメもとでサイゼへ(鍵を返していただいたいろはさん、ありがとうございました)。信じられない事に営業中。余震の続く中机上に営業を続ける従業員の方に申し訳ないと思いつつも、次の食事がいつになるか見通しが立たないため、早めの夕食。しかしkkさん美味しそうにケーキを食べていたなぁ。食事中も余震。

横浜を目指し

5時前、二人がサイゼ前の公衆電話を使うのを待っている間、twitterで「歩いて帰る」宣言をし、災害用伝言板に書き込み。家族にもその旨をメール。ギリちょんさんに会ったりしながら諏訪通りを三人で行く。
西早稲田で別れ、そこからは一人旅。母は新宿伊勢丹にいたのは知っていたため、ウォークマンに付いていたラジオを聞きながら、ひとまず新宿を目指す。新宿までなら歩いたことがあり、所用時間も何となく分かっていたため、バスには乗らなかった(混んでいてどのみち乗れなかったが…)。明治通りは歩行者だらけ。最初はまばらだった新宿方面も、進むにつれて人が増える。途中のコンビニで、食糧が手に入らなくても良いようにお菓子とお茶を購入。おにぎり・パンはすでに売り切れ。レジ待ちの間にも余震。棚が揺れて怖い。
17時40分ころ、新宿3丁目に着く。ひとまず伊勢丹周辺で母を探すも、見つからない。「6時10分までエレベーター前で待つ」というメールを流すも6時閉店となり、追い出された。仕方ないのでメールを送り、一人で帰宅することを決める。
明治通りを進む。千駄ヶ谷のあたりで父から不在着信の通知が、母から災害伝言版経由のSMSが届く。この状況で電話かよ、と頭を抱えたくなったが、まぁ無事だとわかり一安心。ラジオを聴きつつひたすら南下。そんな中ラジオで「横浜は120万戸停電している」との情報が入る。これは、帰っても電気がつかないかもしれないとの懸念が頭をよぎる。

行き先変更

18時50分ころ、渋谷着。この時の計画では、もし電車が動いていなければ、渋谷から田園調布へ向かうバスに乗るつもりでいた。当然電車は止まったまま。バスに乗らなければいけない。しかし、TVでも繰り返し伝えられたように、人だかりが出来ていた。バス乗り場までは100メートル近い列。別の系統を待っている列とぐちゃぐちゃになっていた。人の流れがあるので、迷って立ち止っている時間的猶予はない。「乗れないな」そう判断し、バスターミナルを素通りした。この時点で携帯をチェック。センター問い合わせは機能しなかったが、twitterを覗き始めたとたん母から1時間遅れのメールが届く。高島屋にいた模様。素通りした場所だ。
渋谷の書店が幸い開いていた。中に入り、道路地図で、考えていた自宅までの大体のルートがあっているか検証…しようとした矢先、目に飛び込んできたのが「学芸大学駅」の文字。


そうだ、祖父母宅に行けば良いんだ。


アポ無し訪問になるけど仕方ないだろう。そんな事を考えつつ、ツイート。
行き先を変えるにしても変えないにしても、ルートは途中まで同じ。道玄坂を登る。登る間に田園調布行きのバスを5台追い抜かした。僕の判断は、間違っていなかったようだ。この間にもラジオで情報が続々と。枝野さんの会見で「頑張って帰宅するな」とのこと。確かになぁと思い、この時点で行き先変更が確定。
だが、懸念が一つ。祖父母宅への道は確認していなかった。中目黒までたどり着いたので後は東横線に沿って進めばまぁ何とかなるだろうと思い、近況報告をしようとリプを飛ばしつつ…としかけたところで携帯の度数が1に。家族と連絡が取れていないことを考えると、これ以上携帯を無駄に使う訳にはいかない。そして、歩けど歩けど東横線の線路が見えてこない。これは完全に迷ったか。そう思った矢先東横線の高架が見え、左折。学芸大学駅の改札が見えた時、本当にほっとした。ここまでくれば、祖父母宅への道は分かる。この時、19時50分。自宅までは歩いて5時間と見積もっていた。しかし、まだ都内を出ていないのに3時間経っていた。完全に予測を誤っていたのだ。
20時10分、祖父母宅到着。入口のインターホンで、しつこく来るという証券マンと間違えられ説明に苦労するも、何とか家に入れてもらった。
帰宅後調べてみたら、ここまで13キロほど歩いていた模様。そのルートで自宅まで進むと25キロ!無理に自宅まで行かなくて良かった…

目黒にて

流石に孫。一度家に入ってしまえば申し訳ないほどの歓待。夕食を頂く。食事の後はパソコンを借りる。やはり自宅周辺は全て停電していた。そして、心配してくれた皆さんへ近況報告。避難所情報をRTし、池袋で路頭に迷っていたらしい友人を立教へと誘導。しつこすぎてうざかったかな?TVでは津波の様子を繰り返し報じている。見ていてつらい。
11時ころ、風呂からあがると父から電話。会社に寝泊まりするとのこと。ドラ会延期のメールを流していたところ、12時前に母からメール。新宿のホテルのロビーに入ったらしい。これは気がつかなかった。ホテルが避難の人を入れないわけがない。入れないと信用問題に関わるからだ。ともかく、これで家族全員の無事が確認されたので、寝る。たんすの目の前に寝たが、神棚のある部屋なので大丈夫だろ、と勝手に判断。
翌朝、またしてもたくさんの朝食を頂き、東横線と停電の状況を確認し、掃除を手伝ってから家路につく。帰ったのは10時。何もかも恵まれた環境にいられたことを感謝しつつ帰宅。

帰宅・その後

家は幸い何事もなし。Twitterのアイコンに使っているぬいぐるみがコケたくらいで済んだ。しかし、翌日には吹部のOB演奏が迫っており、対応に追われる。当然中止。同期には連絡を回すのに大変協力をしてもらった。改めて感謝。翌日もその対応で丸一日つぶれる。余震が続く中、恐らく神奈川県一危険な校舎を持つ、母校へ向かい、張り紙を貼ったりした。
そして昨日、今日と地震情報をチェックしつつ節電に努め、部室から楽器を持ち帰って現在に至る。ツイートで流している停電情報やマイル情報が喜んでもらえているのは、少しだけ嬉しい。