王ホークスを振り返る〜第2章・王ホークスの「野球道」とは?〜

一番荒木が塁に出て
二番井端がヒットエンドラン
三番和田がタイムリ
四番ウッズがホームラン...

(以下、選手・監督名は敬称略)

 いわずと知れたドラゴンズの応援歌「燃えよドラゴンズ」の一節である。この曲は初登場から30年以上を経た今まで、歌詞のマイナーチェンジをしながら歌われ続けてきた。しかし、変わらないものもいくつかある。例えば、上に挙げた節である。ドラゴンズの選手が流れるように得点を重ねていく様は確かに痛快である(相手チームとしてはこの上なくガッカリする展開ではあるが…)。この歌詞が変わらないことは、日本人の満足する野球とは?という答えが30年、いや、40年近く変わっていないことを示している。そして、この感覚を日本の野球ファンに植えつけたのがV9巨人であり、その中心選手が、王貞治だった。


 では、V9巨人が作り出した「野球観」とはどのようなものなのか?一言で言うならば、「10人でやる野球」だろう。打の中心は長嶋・王で固め、ほかの打者を黒子に徹させる。末次の台頭まで、ON以外の打者の本塁打数がパッとしないのはここに原因がある。そして投手も前半は藤田、城之内、リリーフエースの宮田、後半は堀内、高橋といった主力を集中的に登板させることで勝利を拾っていく。例えば1969年。この年、堀内と高橋で86試合に登板しているが、当時の試合数は130試合。半分以上の試合に先発の二枚看板を投入していたことになる。
 しかし、この戦術は大きな弱点を抱えた。世代交代が大変進みにくいのだ。V9が始まった1964年から73年まで、ずっとレギュラーを勤めた選手は4人(柴田、長嶋、王、森)。加えて土井が66年から78年、高田が68年から78年までレギュラーを勤めていた。V9メンバーへの信頼の厚さが伺えるが、彼らが衰えを見せる70年代後半、巨人は日本一から遠ざかった。同じように85年から94年までの10年で9回のリーグ優勝を果たした西武もレギュラーが4人変わらなかった(辻・石毛・伊東・清原)が、93年以降日本一まで11年遠ざかったのは記憶に新しい。


 そうした環境の下で打の中心をなした王だったがV9の思想は、巨人監督時代、彼のチーム作りにどう反映されたのか。
野手に関しては、V9野球の華やかな面だけを見て監督をしていたように思われる。王監督就任前の1983年と就任後の翌1984年の、巨人の打撃成績を比べてみると、ホームランが30本増え、盗塁が40減っている。3割をマークした淡口を切ってまでクロマティを入団させた他、「青い稲妻」松本の盗塁数が減ったことが原因だが、打順の変更にも注目したい。前年3番を打っていた篠塚が2番に上がり、河埜を7番に落としているのだ。松本の盗塁数の減少にも関わらず2番打者の儀打数が半減していることを考えると緻密な野球よりも、勢いで勝つ野球を目指したようだ。この考えはV9メンバーの監督経験者の中では長嶋氏に最も近いといえるが、打線全体が好調であることが求められるので戦いが安定しない。王と同じく、川上・藤田の築き上げた安定したチームを受け継いだ長嶋巨人が、2度の在任時に1位から6位までの順位をウロウロしたのは偶然ではないだろう。この辺りは緻密な野球を掲げ、Aクラスを堅持した「元・黒子」広岡・森両名とは対照的である。


 一方、投手に関してはV9時代と発想は何ら変わらぬままに運営していたようだ。つまり、計算できる投手を集中投下し勝ちをもぎ取っていく、というやり方だ。就任1年目の84年は江川・西本の二枚看板の調子が良かったためにあまり顕著ではなかったのだが、85年以降両名に衰えが見え始めると、鹿取・角への負担が増えていく。40試合前後に留まっていた登板数が60試合を超えるまでに伸びていく。いわゆる「ピッチャー鹿取」である。いつ登板するかが見えてこない戦略なき起用法は両名の超人的なスタミナによって何とか成績を保ってきたが、87年に角が、88年に鹿取も調子を崩し、89年に藤田が監督に復帰したとき、彼らの姿はチームになかった。


 結果的に巨人では一度も日本一になることなく、追われるようにチームを去った王だったが、ホークスでは巨人での失敗を糧にできたのか。答えは「NO」だ。


 「豪快な野球が九州には合う」という発言を繰り返し、小久保を筆頭に強打者を揃えた野手陣は破壊力抜群の打線は、弱かった投手陣を支えた。2003年の若手投手の台頭は打線の支えがあってこそ、と言えるだろう。しかし、1999年の優勝メンバーへの固執は時間がたつにつれ次第に強くなっていったのではないか。小久保・松中・城島・井口・柴原に頼りすぎた期間が長かったが故に、彼らがチームを離れても、後継者となりうる選手が活躍しなくても「帰ってきたら勝てる」という期待を首脳陣は持ち、控え選手は「どんなに頑張っても穴埋め以上にはなれない」というモチベーションの低下を招いた。フロントも投手の補強を延々と続け、野手は、特にスラッガータイプの野手の獲得にはなかなか動かなかった上、ファームも吉本や北野といった数少ない長距離砲の育成を怠り続けた。その結果開いてしまった1970年代後半生まれの中間層を、トレードや外国人戦略で穴埋めする一方で、鳥越や坊西といったベテランのスーパーサブの引退に合わせるかのように、1980年代前半生まれの「名ばかりの即戦力」を多少粗くても使わざるを得ないという、いびつな状況が生まれたのだ。


 投手はもっと状況が深刻である。古くは篠原・岡本・吉武、最近では小椋・藤岡・柳瀬・久米・大隣と、ホークスで台頭してきた若手投手は王の「集中投下」戦術によって調子を大きく崩し、離脱することが「通過儀礼」となっていたが、最も深刻な例が斉藤和巳だ。斉藤は2006年の酷使とも言えるポストシーズンの登板により「爆弾」の肩を痛めた事を隠して2007年に臨み、案の定故障離脱。その年の内に無理やり復帰させたことが今年の完全離脱につながった。
02年までの弱い投手陣を抱えた状態では、少ない「使える投手」を、寿命を犠牲にして集中的に使い込むことは間違っていないだろう。現に、野村監督時代のヤクルトはその戦術で結果を出してきた。しかし、若手投手の台頭が進んだ03年以降もその路線を続けたのはなぜだろうか。強さが持続している間に、リリーフの駒を増やしておくことは可能だったはずだ。例えば、ペドラザが安定していた間にセットアッパーを育てたり、馬原の成長に併せてライバルを決め、セットアッパーに育てることは出来たはずだ。しかし、それを怠った。目の前の勝利「だけ」にこだわるあまり。


 僕は「王監督の14年間は意味がなかった!」と否定するつもりはない。彼の存在なくして、昨年までの「常勝ホークス」は誕生しなかっただろうし、今日のパ・リーグの隆盛にはつながらなかっただろう。しかし、「ホークスを常勝球団にしたのは王さんのおかげだ」という発言には賛同しがたい。監督だけでチームは強くならないからだ。幸いにして王の下には根本陸夫という敏腕フロントが控え、他球団の、時には世論の非難まで受けて獲得した優秀な選手が揃っていた。彼らの力を最大限に発揮せしめたのは王の「カリスマ」によるところだろう。しかし、王には彼らの後に続く人材を育てることが出来なかった。いや、しなかったと言う方が正しいのかもしれない。2軍監督が2年おきに交代している事、そしてホークスの高卒選手で大成したと言えるのが斉藤・城島・川崎のみという事はその証明だろう。90年代に獲得し続けた野手の隆盛を横目に、持続しない「集中投下戦術」と「育成放棄路線」に対応するため、フロントは「即戦力」「投手」を6年連続1位指名し続けた。結果として投手力の安定にはつながったが、野手陣の高齢化には「泥縄」での対応を迫られることになった。
 ホークスはフロントの力で勝ってきたチームであった。しかし根本氏の死でフロントの発言力が弱まり、優勝を重ね王の発言力が強まるにつれ、強さを失っていった。この事実は明白であろう。2005年から王はフロントの一員となった。ホークスの「凋落」がこの年から始まっているのは偶然ではあるまい。


 次章では、秋山政権に求められるものを考察していきたい。